仕事のこと・日常のこと・思うことをつらつらとかきつづる日記。
カレンダー
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
フリーエリア
最新CM
[02/24 quadrifoglio]
[01/15 quadrifoglio]
[12/12 quadrifoglio]
[12/08 quadrifoglio]
[11/06 quadrifoglio]
最新TB
プロフィール
HN:
taka
性別:
非公開
ブログ内検索
アクセス解析
アクセス解析
カウンター
Wed.07/02. 2008
昨日途中でやめてしまったので、ちょびっとだけ続きを書いておこう。
別にもったいぶったわけでもないのだが、えらい中途半端なところで書き終えてしまったので。
僕は不思議な力の解放手段には二つのキーワードがあると思っている。
(これは完全に僕の思い込みなので鼻で笑う方が大半だとは思うが、あえて言う。)
それは、 「愛」 と 「徳」 だ。
人は追い込まれた状況下において、自分の実力以上のものが瞬間的に出ることがある。
この追い込むというのは考え方を変えてみると、「愛」と深くかかわりがある。
それはなぜか。
追い込むというのはなにも負のベクトルばかりではないのだ。
たとえば家族を守りたいと思う父親がいるとする。
家族がいるから彼はがんばるのであって、一人では頑張りが利かないかもしれない。
どちらにしても大きな愛情があって初めて生まれるパワーだったりする。
このように、家族愛に限らず、恋愛・自己愛・友情、関係を問わず大きな意味で「愛」を持って生きていると、
それは不思議な力を生む原動力になると考えている。
ただ、これはあくまでも自分に馬力(燃料?)を与える意味での不思議な力だ。
先日記載した、いわゆる不思議な力というのはまた次元が違う。
そこで登場するのが、「徳」 である。
これは本当に不思議な力、という意味では最も重要な要素だと思う。
ここからの話は、聞き様によってはオカルト的な要素が含まれるが、あくまでも私が文献等を読んで、客観的に感じたことである。
まず、「徳」とは何か。
古代中国の儒教では、仁・義・礼・智・信の五徳といわれている。
西洋では叡智や思慮、正義などといわれることもある。
これらを総合し、自分の経験も踏まえて、私が考える「徳」とは大きな意味での「経験値」だと考えている。
たとえば、身近にいる徳のある人物というものを思い浮かべて欲しい。
押しなべて経験豊富で思慮深く謙虚で物腰柔らかであったり上記した五徳が備わった人物でないだろうか。
つまり、多くの経験を積むことによりいわゆる「徳」というものが備わるのである。
しかし、私はこれが現世だけで備わる物だとも思えない。
遠い過去、前世からの因縁によるものだと考えている。
その証拠に、得のある人物というのは決して老人にしか存在しないわけではない。
つまり、人は輪廻転生の中で、数々の経験を積み少しずつ人間歴を積上げ、「徳」が備わり、それが昇華して、やがて神のようなものになるのではないか、と考えているのだ。
(私は無宗教なので神=何かは分からない。ここで私の言う神とは人智を超える力を持ちし者である。)
少々余談になるが、人は生まれる前、それまでの変化を一通り形として表現するといわれている。
つまり、母体の中で昆虫のような形をしたり動物のような形をし、さまざまな変形をしつつ、人間のようになるのだ。
これが意味するところは何か?
私の考えでは、人は生まれる前に過去の記憶をさかのぼるのだと思う。
そしてその人の器は前世からの経験値を元に形成されるが故に、生まれたときに個人差が生まれるのだろうと思う。
では現世での努力は何の意味もないのか?
それは大きな間違いだ。
むしろ、現世での経験、努力こそが次の人生を決めるといっても過言ではない。
換言するならば、現世で怠けた者、罪を犯したものは来世人間という形でこの世に存在することはないと思ったほうがいい。
当然のことながら、がんばることで今世でのポジションを高めることも可能だし、その上、来世での能力まで決まってしまうのだ。
こう書いてみて思うことは何か?
やはり今世では生まれもった器によって、潜在能力を開放する術はないということになるのか?
答えはNoだ。
ではどうすべきか?
答えはシンプルである。
今世で凡人の数倍もの経験を積むことである。
人は不要なものをどんどん退化させ、必要なものをどんどんと進化させるという不思議な特徴がある。
たとえばアフリカの砂漠地帯にいる人間を東京にもってくると視力が大幅に下がる。
これは遠くを見る必要性がなくなるからだ。
ものの半年で5.0あった視力が0.1近くまで落ちた例もあるそうだ。
ということは逆もまた真なのだ。
さまざまな経験を積極的に積むことで自分の感性や能力に刺激を与え続ける。
すると、これまで経験してこなかったために死んでいた感性が揺り起こされさらに、Aという感性とBという感性(まったく別ジャンルのもの)を有機的につなぎ合わせて、新たなCという感性を生むことさえ想定される。
つまり、凡人より多くの経験をより早く積むことにより、自分に「徳」を与えるのだ。
これだけでは当然、神のような存在にはならないが、
少なくとも不思議なな力が備わることは往々にしてある。
極端な例だが、臨死体験を機に不思議な力が備わるというケースが多いのも、死ぬほどの経験を積んだ結果、という意味では「徳」を得たということに近いかもしれない。
仏教の世界では悟りの境地とも言えるだろう。
どちらにせよ、人より多くの経験を積むこと。
言い換えるなら困難を乗り切ること。
そうすることで、必ず自分の徳は磨かれ、やがて不思議な力を垣間見る瞬間が生まれ、
死滅している90%の能力を1%でも多く開放することにつながるだろうと私は考えている。
だいぶ長くなったが、ふと朝のトイレでそんなことを考えました、という雑記程度のお話です。
別にもったいぶったわけでもないのだが、えらい中途半端なところで書き終えてしまったので。
僕は不思議な力の解放手段には二つのキーワードがあると思っている。
(これは完全に僕の思い込みなので鼻で笑う方が大半だとは思うが、あえて言う。)
それは、 「愛」 と 「徳」 だ。
人は追い込まれた状況下において、自分の実力以上のものが瞬間的に出ることがある。
この追い込むというのは考え方を変えてみると、「愛」と深くかかわりがある。
それはなぜか。
追い込むというのはなにも負のベクトルばかりではないのだ。
たとえば家族を守りたいと思う父親がいるとする。
家族がいるから彼はがんばるのであって、一人では頑張りが利かないかもしれない。
どちらにしても大きな愛情があって初めて生まれるパワーだったりする。
このように、家族愛に限らず、恋愛・自己愛・友情、関係を問わず大きな意味で「愛」を持って生きていると、
それは不思議な力を生む原動力になると考えている。
ただ、これはあくまでも自分に馬力(燃料?)を与える意味での不思議な力だ。
先日記載した、いわゆる不思議な力というのはまた次元が違う。
そこで登場するのが、「徳」 である。
これは本当に不思議な力、という意味では最も重要な要素だと思う。
ここからの話は、聞き様によってはオカルト的な要素が含まれるが、あくまでも私が文献等を読んで、客観的に感じたことである。
まず、「徳」とは何か。
古代中国の儒教では、仁・義・礼・智・信の五徳といわれている。
西洋では叡智や思慮、正義などといわれることもある。
これらを総合し、自分の経験も踏まえて、私が考える「徳」とは大きな意味での「経験値」だと考えている。
たとえば、身近にいる徳のある人物というものを思い浮かべて欲しい。
押しなべて経験豊富で思慮深く謙虚で物腰柔らかであったり上記した五徳が備わった人物でないだろうか。
つまり、多くの経験を積むことによりいわゆる「徳」というものが備わるのである。
しかし、私はこれが現世だけで備わる物だとも思えない。
遠い過去、前世からの因縁によるものだと考えている。
その証拠に、得のある人物というのは決して老人にしか存在しないわけではない。
つまり、人は輪廻転生の中で、数々の経験を積み少しずつ人間歴を積上げ、「徳」が備わり、それが昇華して、やがて神のようなものになるのではないか、と考えているのだ。
(私は無宗教なので神=何かは分からない。ここで私の言う神とは人智を超える力を持ちし者である。)
少々余談になるが、人は生まれる前、それまでの変化を一通り形として表現するといわれている。
つまり、母体の中で昆虫のような形をしたり動物のような形をし、さまざまな変形をしつつ、人間のようになるのだ。
これが意味するところは何か?
私の考えでは、人は生まれる前に過去の記憶をさかのぼるのだと思う。
そしてその人の器は前世からの経験値を元に形成されるが故に、生まれたときに個人差が生まれるのだろうと思う。
では現世での努力は何の意味もないのか?
それは大きな間違いだ。
むしろ、現世での経験、努力こそが次の人生を決めるといっても過言ではない。
換言するならば、現世で怠けた者、罪を犯したものは来世人間という形でこの世に存在することはないと思ったほうがいい。
当然のことながら、がんばることで今世でのポジションを高めることも可能だし、その上、来世での能力まで決まってしまうのだ。
こう書いてみて思うことは何か?
やはり今世では生まれもった器によって、潜在能力を開放する術はないということになるのか?
答えはNoだ。
ではどうすべきか?
答えはシンプルである。
今世で凡人の数倍もの経験を積むことである。
人は不要なものをどんどん退化させ、必要なものをどんどんと進化させるという不思議な特徴がある。
たとえばアフリカの砂漠地帯にいる人間を東京にもってくると視力が大幅に下がる。
これは遠くを見る必要性がなくなるからだ。
ものの半年で5.0あった視力が0.1近くまで落ちた例もあるそうだ。
ということは逆もまた真なのだ。
さまざまな経験を積極的に積むことで自分の感性や能力に刺激を与え続ける。
すると、これまで経験してこなかったために死んでいた感性が揺り起こされさらに、Aという感性とBという感性(まったく別ジャンルのもの)を有機的につなぎ合わせて、新たなCという感性を生むことさえ想定される。
つまり、凡人より多くの経験をより早く積むことにより、自分に「徳」を与えるのだ。
これだけでは当然、神のような存在にはならないが、
少なくとも不思議なな力が備わることは往々にしてある。
極端な例だが、臨死体験を機に不思議な力が備わるというケースが多いのも、死ぬほどの経験を積んだ結果、という意味では「徳」を得たということに近いかもしれない。
仏教の世界では悟りの境地とも言えるだろう。
どちらにせよ、人より多くの経験を積むこと。
言い換えるなら困難を乗り切ること。
そうすることで、必ず自分の徳は磨かれ、やがて不思議な力を垣間見る瞬間が生まれ、
死滅している90%の能力を1%でも多く開放することにつながるだろうと私は考えている。
だいぶ長くなったが、ふと朝のトイレでそんなことを考えました、という雑記程度のお話です。
PR
この記事にコメントする