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やはり初めてのことというのは何かと不手際が続く物で・・・。
私が利用しているECサイトはMakeShopという会社のシステムを利用しているのですが、
そこでは便利なことに注文や入金確認、配送完了等があると、自動的にメールを配信する仕組みになっております。
しかしながら、この便利な仕組み、送られるメールが個々人で変更できなかったり、うまく送られているかは、実際に送られて見ないとわからない、という難しい点があります。
一人ひとりに自分でメールをするのは手間もかかるし、大変なことですが、折角自分のお店で購入してくださったお客様にご迷惑をおかけするのははなはだ申し訳ない。だから本当は自分ですべてメールを打ちたい。
でもそれは非効率なわけで・・・。
悩ましいです。
少なくとも、事前にもっとシュミレーションして細部までメンテナンスをしたシステムで対応すれば防げた不具合も合ったはず。
自分の準備不足を猛省です。
これでお客様がリピートしてくださらなくなることだってありうるわけですので、
今後はよりいっそう細かいことに気を配りながら運営していきたいと決意を新たにするのでした。
初の受注がございました。
サイトを開設してから約1ヶ月。
死ぬ気でがんばった、とはとても言いがたいですが、それでも努力を重ねた結果だと思います。
第一号のお客様には心から感謝しております。
そして運営を手伝ってくれるスタッフにも感謝いたします。
この場をかりてお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
ただ、納品が完了するまで、もっと言うならば、お客様が私どもがお送りした商品に対して満足頂くまで、
気は抜けません。
お客様に満足いただけるようがんばりましょう!
とりあえず、今日はお祝いしましょう♪
別にサボっていたわけではないのだ!
2日以来の更新になりますね。
今月は14-18日は海外に行ってまして不在にしてました。
この間に、うれしいことに自分が展開しているサイトに会員第一号が誕生しました。
まだ購入していただいてはおりませんが、何かしら興味をお持ちいただき、
会員登録をしていただけたことに感謝しております。
ありがとうございます。
また、先週は、新商品も発売の目処が立ち、
そちらの宣材写真の撮影も終え、いよいよ発売解禁日を待つばかりとなりました。
このところ、集客と販売に頭を悩ますことが多く、半ば嫌になることも多々ありましたが、
こういうちょっとしたよいことを糧にがんばろうと思います。
仕事を掛け持ちしているとどうしても各仕事に対するパワーが中途半端になりがちですが、
何とか自分の気持ちに喝を入れてすべての仕事に対して真摯に向き合いたいと思います。
ちなみに今後の作業予定。
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法人口座の開設。
カード決済手続き。
検索エンジンへの有料登録。
別にもったいぶったわけでもないのだが、えらい中途半端なところで書き終えてしまったので。
僕は不思議な力の解放手段には二つのキーワードがあると思っている。
(これは完全に僕の思い込みなので鼻で笑う方が大半だとは思うが、あえて言う。)
それは、 「愛」 と 「徳」 だ。
人は追い込まれた状況下において、自分の実力以上のものが瞬間的に出ることがある。
この追い込むというのは考え方を変えてみると、「愛」と深くかかわりがある。
それはなぜか。
追い込むというのはなにも負のベクトルばかりではないのだ。
たとえば家族を守りたいと思う父親がいるとする。
家族がいるから彼はがんばるのであって、一人では頑張りが利かないかもしれない。
どちらにしても大きな愛情があって初めて生まれるパワーだったりする。
このように、家族愛に限らず、恋愛・自己愛・友情、関係を問わず大きな意味で「愛」を持って生きていると、
それは不思議な力を生む原動力になると考えている。
ただ、これはあくまでも自分に馬力(燃料?)を与える意味での不思議な力だ。
先日記載した、いわゆる不思議な力というのはまた次元が違う。
そこで登場するのが、「徳」 である。
これは本当に不思議な力、という意味では最も重要な要素だと思う。
ここからの話は、聞き様によってはオカルト的な要素が含まれるが、あくまでも私が文献等を読んで、客観的に感じたことである。
まず、「徳」とは何か。
古代中国の儒教では、仁・義・礼・智・信の五徳といわれている。
西洋では叡智や思慮、正義などといわれることもある。
これらを総合し、自分の経験も踏まえて、私が考える「徳」とは大きな意味での「経験値」だと考えている。
たとえば、身近にいる徳のある人物というものを思い浮かべて欲しい。
押しなべて経験豊富で思慮深く謙虚で物腰柔らかであったり上記した五徳が備わった人物でないだろうか。
つまり、多くの経験を積むことによりいわゆる「徳」というものが備わるのである。
しかし、私はこれが現世だけで備わる物だとも思えない。
遠い過去、前世からの因縁によるものだと考えている。
その証拠に、得のある人物というのは決して老人にしか存在しないわけではない。
つまり、人は輪廻転生の中で、数々の経験を積み少しずつ人間歴を積上げ、「徳」が備わり、それが昇華して、やがて神のようなものになるのではないか、と考えているのだ。
(私は無宗教なので神=何かは分からない。ここで私の言う神とは人智を超える力を持ちし者である。)
少々余談になるが、人は生まれる前、それまでの変化を一通り形として表現するといわれている。
つまり、母体の中で昆虫のような形をしたり動物のような形をし、さまざまな変形をしつつ、人間のようになるのだ。
これが意味するところは何か?
私の考えでは、人は生まれる前に過去の記憶をさかのぼるのだと思う。
そしてその人の器は前世からの経験値を元に形成されるが故に、生まれたときに個人差が生まれるのだろうと思う。
では現世での努力は何の意味もないのか?
それは大きな間違いだ。
むしろ、現世での経験、努力こそが次の人生を決めるといっても過言ではない。
換言するならば、現世で怠けた者、罪を犯したものは来世人間という形でこの世に存在することはないと思ったほうがいい。
当然のことながら、がんばることで今世でのポジションを高めることも可能だし、その上、来世での能力まで決まってしまうのだ。
こう書いてみて思うことは何か?
やはり今世では生まれもった器によって、潜在能力を開放する術はないということになるのか?
答えはNoだ。
ではどうすべきか?
答えはシンプルである。
今世で凡人の数倍もの経験を積むことである。
人は不要なものをどんどん退化させ、必要なものをどんどんと進化させるという不思議な特徴がある。
たとえばアフリカの砂漠地帯にいる人間を東京にもってくると視力が大幅に下がる。
これは遠くを見る必要性がなくなるからだ。
ものの半年で5.0あった視力が0.1近くまで落ちた例もあるそうだ。
ということは逆もまた真なのだ。
さまざまな経験を積極的に積むことで自分の感性や能力に刺激を与え続ける。
すると、これまで経験してこなかったために死んでいた感性が揺り起こされさらに、Aという感性とBという感性(まったく別ジャンルのもの)を有機的につなぎ合わせて、新たなCという感性を生むことさえ想定される。
つまり、凡人より多くの経験をより早く積むことにより、自分に「徳」を与えるのだ。
これだけでは当然、神のような存在にはならないが、
少なくとも不思議なな力が備わることは往々にしてある。
極端な例だが、臨死体験を機に不思議な力が備わるというケースが多いのも、死ぬほどの経験を積んだ結果、という意味では「徳」を得たということに近いかもしれない。
仏教の世界では悟りの境地とも言えるだろう。
どちらにせよ、人より多くの経験を積むこと。
言い換えるなら困難を乗り切ること。
そうすることで、必ず自分の徳は磨かれ、やがて不思議な力を垣間見る瞬間が生まれ、
死滅している90%の能力を1%でも多く開放することにつながるだろうと私は考えている。
だいぶ長くなったが、ふと朝のトイレでそんなことを考えました、という雑記程度のお話です。
今日は仕事とは関係のないお話を。
皆さんは「不思議な力」という物を信じるだろうか。
(突然そんなこといわれても困るね(笑))
ちなみに、僕は日常生活の中でしばしば不思議な感覚に襲われる。
大別して、いいことがおきるときは体に熱が走る。体中の時もあれば、手先がビリビリと電気が走るような感触になるときもある。総じて体温は上がる。
(こう書くと、非常にオカルトっぽい人間だとおもわれるが、念のため言っておくが僕はリアリストだ。)
反対に悪いことがおきるときは、腹のそこにとてつもないイライラというか、モヤモヤのような物が発生する。
肩や首が重くなる。
ひどいときは決まって体調を崩す。
直感的に嫌だ、という拒否反応が体に生じるらしい。
(実はそれで救われていることも多々ある。)
一般的に人間は追い込まれたときほど潜在能力が開放されやすいといわれているが、
どうも、僕は追い込まれようが追い込まれまいが、何かしらの「力」を感じることがある。
これはなんなのだろうか?
一般的に普段自分の使っている能力というのは、本来人間が持っている能力の2,3%といわれている。
かのアインシュタインでさえ、7%程度だったという。
(数字は定かではないがこんなもんだ。)
では残りの90%以上の能力は何なのだろうか。
それを開花することはできないのか??
そんなことを考えたことは多くの方があるのではないか。
以前、船井総研社長の船井氏が書いた人間学という本を読んだ。
そこには、人間には不思議な力があるということが色々と書かれている。
(というよりは、この世とあの世の存在や、前世と今世の話もたぶんに書かれている。)
見たことも聞いたこともない病気を、医者でもない人間が治し方を知っていたとか、
地球の裏側で起きている事件について解決に導いたとか。
サキヨミができるとか。
その類の話がいくつかでていたのだが、
このあたりの話が、単なるオカルト信者によって書かれたものであれば僕も興味を持たなかった。
しかし、科学的な頭脳を持ち、コンサルタントとしても超一流の作者が書かれたのであるなら話は別だ。
その本を読む限り(内容はここでは省略する。)、どうやら人間には不思議な力があり、それは鍛錬によって開花させることがある程度は可能なようだ、ということが分かってきた。
僕は、これが恐らく人間が本来持っている能力のうちの残りの90%にあたるのであろうと推測している。
となるとやはり気になるのは残りの能力と、その開放手段だ。
もし、自分にもアインシュタインやガリレオやその他の著名人に負けず劣らず潜在能力があるのだとしたら、
どうにかしてその1%でも多くを開放させたいと思うのが人情だろう。
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実は今仕事の合間に書いているので、続きはまた次回。